窓辺のレモンティ

社会人となり数年。日々の思いや考えを綴る、瀬戸こなつのブログです。

「常識を疑う」ために必要なこと

社会人になって数年が経つが、思えば入社当時は驚くことばかりだった。それは素晴らしさや感動による驚きではなく、「驚き呆れる」という種類のものだった。

 

まず表面的な観点で言うと、例えば社内のレイアウトがそうである。働き始めて各部署の役割と関係性、日々の動きがわかってくると、どう考えても効率的とは言い難いレイアウトで仕事をしている。

 

また各所に貼られた掲示物等は、よく見るとその多くが期限切れであった。新しいものもあるにはあるが、実際にそれらを見て情報を得ている人はほぼ皆無である。ボードや掲示物はただ漫然とそこに存在しているだけで、機能はしていない。

 

さらに古いキャビネットの引き出しには、今は存在しない文書名のテプラが貼ってあり(いつの時代に作成されたのか誰も知らない!)、それを慣習的に使っていた。

 

実際に働き始めてさらに驚いたのは、仕事の内容や業務の進め方である。新人の私にとっては多くの文書や資料、システムや手順が謎であり、まだ理屈や意味がわからない。

 

そこで一つ一つ教えてもらうのだが、その度に「これをするために未だにこんなことをしているのか」「なぜこんな非効率的なやり方をするのだろう」そもそもこれは必要なのか」等々、様々な疑問が渦巻いた。

 

「私が何も知らない新入社員だからこのように思うのか?」と思う一方で、「いや、至極当然の疑問ではないか?」とも思った。

 

会社の雰囲気や体質、独特とも言える文化も徐々にわかってきたのだが、それも奇妙に映った。

 

このように組織や仕事に対して違和感を覚えていた私だが、業務を覚えてこなしていくうちに会社の濁流に飲み込まれ、あっという間に忙殺されていった。

 

そして半年~1年ほど経った頃、ある仕事をしているときにふと我に返った

 

その時私が行っていたのは、入社当時あんなに不思議で非効率的だと思っていた時代錯誤とも言える業務だったのだが、

 

それを当然のごとく受け入れて当たり前のようにこなしている自分がいたのだ。

 

考えてみると、最近はあの古いテプラが貼ってあるキャビネットに対する違和感も薄れている。私は迷うことなく書類を出し入れしている。テプラでは「A」と書いてあるが、「A」の引き出しには「B」が入っている、と頭の中に無駄な変換装置が出来上がっていた。

 

そんな自分に愕然とした。感覚が鈍磨している、と。

 

会社が様々な面で変わらないのは、社内の雰囲気や暗黙の了解という部分もあるだろう。だが、働く社員の感覚が鈍磨していることが一番大きな原因ではないだろうか。

 

人間は良くも悪くも環境に慣れて順応していく。すると初めは違和感を覚えたものも、徐々に当たり前のこととして受け入れて疑問にも思わなくなる。おかしいことをおかしいと思えない状態になる。

 

私は「どうして誰も何も変えようとせず、声を上げないのか」と思っていたが、それはそもそもおかしいと思っていないからなのだ。

 

確かに、疑問を投げかける新入社員の私に先輩たちは「なにが不思議なの?当たり前でしょう?」とでも言うように、不思議な顔で答えていた。中に入ってしまうと、見えなくなってしまう。そこにあるのに、もう何も見えない状態になるのだ。

 

常識を疑うことは非常に大切である。だが常識を疑うために必要なのは、第一に常識を常識として自覚することである。

 

つまり、すっかり違和感なく溶け込み、馴染んでしまっている身の回りの「当たり前」の輪郭をあぶり出し「これが常識(当たり前)になっている」という認識を持つことである。

 

この自覚や気づきが無ければ、それを疑うことすらできないのだ。