窓辺のレモンティ

社会人となり数年。日々の思いや考えを綴る、瀬戸こなつのブログです。

ヘドロの中のナマズか、清流に棲む鮎か。

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 断捨離に出会うまでは本当に「ゴミ」と言えるもの以外、「捨てる」という選択肢は考えたことが無かった。「捨てる」という概念すらなかったのだと思う。当時の私にとって片付けとは、自分が持っているものをどうやって整理整頓し、納めるか、ということだった。

 

 しかし収納ケースに入っているものを見直し、改めてモノと向き合ってみると、不要なモノを大量に、しかも大切に保管していることに気づいたのだ。

 

 もう着ていないけれど、高かったから捨てられずにいた洋服。いつか読むかもしれない・勉強するかもしれない、ととって置いた本や資料、ノート類。子どもの頃に学校で作った作品やぬいぐるみ、手紙、年賀状…などなど。

 

 時間軸を「今」、重要軸を「自分」に据えて考えると、私の周囲には「不要・不適・不快」なものがたくさんあった。

 

 つまり、「今」の「自分」にとって必要か、相応しいか、心地よいか、と考えてみる。すると、既に多くのモノがそのお役目を終了していたり、モノと自分の関係性は既に生きた関係ではないと気付いたりする。いつの間にか不要で不適で不快なモノたちに空間を奪われ、住まいは淀んでいたのだ。

 

 生ものと違い、モノが腐ることは無い。でも目には見えないが、モノも腐敗し停滞をもたらす。その通りだと思う。

 

 断捨離の提唱者であるやましたひでこさんは、家の中にモノが堆積し、モノに埋もれた生活をしている状態をこんな風に例えている。

 

 「ヘドロでいっぱいの淀んだ溜め池で、身動きの取れないナマズのようだ」と。

 

 でもモノの入り口を管理し出口を開け、ヘドロという不要物を流せば、清流をスイスイと泳ぐ鮎のようになれると。

 

 以前はクローゼットも棚の中も、しっかりとモノが詰め込まれていたけれど、今では空間が生まれた。モノと向き合うことで過去にも片が付き、気持ちもスッキリした。部屋には清々しい風が流れ込んでくる。私も、少しは清流の鮎に近づけたかもしれない。