窓辺のレモンティ

日々の思いや考えを綴る、瀬戸こなつのブログです。

働いている間も、私たちは生きている。

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 以前にも話したけれど、私が今やっている仕事は単純な事務作業に過ぎない。自分では意味を感じられないし(まだ入社して年数が浅いから、という理由だけではないと感じている)、無意味でおかしいと思う業務にあふれている。

 

 処理自体要らないのではないかと思うものも多いし、何のためにこんなやり方をしているのかわからないものもある。百歩譲って処理自体は行うにしても、別の方法の方が余程良いと思ったりもする。

 

 仕事内容だけでは無い。仕事の進め方、賃金体系、長時間労働、休暇取得の困難さ等、働き方や組織のあり方について、違和感は強くなり、我慢ならないことも多くなった。

 

 しかし労働環境や労働条件、仕事内容で何か言おうものなら、周りからは「贅沢」、「甘えている」と言った意見が多く聞かれる。これが現実だ、みんなそうやって働いている、そんなことも受け入れられないのか、等々。でも本当に、仕方のないことだと簡単に片付けて良い話だろうか?

         

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 確かに、生きていくためには働かなければならない。これはある意味ではもちろん正しい。

 

 現在私たちが生きているのは、市場原理が主導的な市場社会である。そこでは、買い手がつくような価値あるもの、つまり値段が付く財やサービスを市場に出せないのであれば、労働力を売ることで企業に雇われて働き、生活の糧を得ることになる。

 

 そうして収入を得て、生活に必要な品々を買う。収入が無ければ食べていけないし、生命を維持することはできなくなってしまう。

 

 やはり、生きるためには働かなければならないだが働いている間、私たちは紛れもなく「生きている」ということを忘れてはいけないと思うのだ。

 

 だからどのような環境で、どんな条件で、何をするかというのは、自分がどう生きるかということに深く関わってくる。それらについてこだわって考えること、あるいは現状に対して違和感を持ち、疑問を抱くことはむしろ普通の感覚であると思う。これは贅沢や甘え、忍耐力の欠如ではなく、当然のことだと思うのだ。

 

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 「会社はそういうものだ」、「社会人になるとはそういうことだ」、という言葉にはどこか「立派な大人」であるような響きがある。

 

 しかし、経営効率や利益獲得を第一とする企業のエゴにうまく丸め込まれているようにも見える企業側の理論にすっぽりと飲み込まれて、思考停止の状態に陥っているとも言えるのではないか。一体自分は、自分の生はどこに行ってしまったのか。

 

 何も考えずに組織に染まる方が企業の中では過ごしやすく、簡単なことかもしれない。だが働いている間も、私たちは生きているのだ。その中で、あらゆる主導権を企業に奪われ、どんな指示・命令にも絶対的に従うのは耐えられない。人を人と思わないような使い方をされ、理不尽がまかり通るのはやはりおかしいし、望む生き方ではない。

 

 働き方に違和感を感じたり、おかしくないだろうかと疑問を持つと、往々にして現実をわかっていない「子供」のように認識される。でも、違和感を持ち疑問を抱く「子供」と、全ての常識を疑わないで「甘えるな、現実を見ろ」という「大人」現実を見据えて自分の生と向き合い、思考しているのはどちらだろうか。